美について

先週は、梅田の蔦屋書店に行って来た

品揃えも豊富で、読みたい新書や美術系の著書も大体あった

スタバも有り、緑もある、そこそこの椅子もあるので、コーヒーに、本が読みたい放題、夢の様で有る

贅沢を言えば、空だけがない、これで空があれば最高である

でもやっぱり、好きな本は一人でひっそり読みたい

だから、買うのが恥ずかしい様な新書を2冊読み帰ってきた


話は、代わり、美について

この様な内容は、書いては見て居ても、公開する気が起きないもので中々難しい

美とは、色んな場面やモノに感じるモノで人の心は非常に自由である

年に数回田舎に帰るのだが、幼馴染や知人が働いている姿を目にする事があり

その姿は、みなどこか美しい、見方によれば

馬鹿にする人もいるかもしれないその姿は、どこか美しく

愛おしく、感じてしまう

美とは、綺麗に整っている様だけではなく

どこかいびつで汚らしいモノにすら心が動いてしまうモノで

誰かが生理的なモノだとも語っていたが

それは自己の内面から浮き上がるモノではないだろうか

巨匠たちが描いた絵画に、自己の中にある誰か、何処か、を思い涙など流してしまう

わからないモノには疑問を感じ知りたいと思い、知ろうとする

その引っかかりも自己の中にある

そう考えると自己から外に出る事はできないのかもしれない

新たな自分を見つけた所でそれもまた自己の中にあり

人は人である、それ以上ではない

「科学は、進化していて切り捨てられて行くが

芸術は、切り捨てられないモノで、変わらずそこにあるモノ」


布施英利氏の著書でこの様な言葉があるのだが、科学は進化しているが人は進化していないと言っている

文明は進歩し、今があるのだが、解剖学の観点から見るとクロマニヨン人の骨格と現代人のそれが非常に似ていて

骨格からするに、脳 臓器 筋肉 などついている物もほぼ同じだろうと推測される

クロマニヨン人と言えば、何万年前の旧人なのだが、そこから人は変わっていないと言う事に成る

ラスコの壁画などが発見されているが、芸術の起源などとも言われている

また、クロマニヨン人の子供が現社会に移住して来たら、子供は、社会に順応して行き普通にゲームなどもしているだろう

とも語っている、非常にこれは面白い

旧人と現代人の心は変わらない、だから、美を感じる心もずっと同じで、ルネッサンス期のダヴィンチやボスとピカソとのそれにどちらが優れているなど言えない

芸術は、いつの時代も皆の心にあるモノで、それを表出させる手段の本質はあまり変わっていないのではないだろうか

意外に、美や少し偉そうな御芸術も当たり前なもので、大した物ではない様な気もしてくる

クロマニヨン人が見た夜空や星はきっと今と大して変わらない

夜空や星を見ていて何を感じていたんだろう

近いものがあるのかもしれない

 

文章を書いていて思うのは、構成力の無さ、だから、だんだんとぐちゃぐちゃになって行く

書いていれば慣れてくるかな、乱文・乱筆失礼致しました。

 

秋晴れは気持ちが良い

すっかり肌寒くなり、どこか人恋しくて

毎年の事ではあるが、毎度思う。この季節がそうさせているのでしょうか

昨日ふと、荒川秀作が絵画には指一本入らないじゃないかなんて言ってた事を思い出しちゃって、確かになっと思ってみたり

絵なんてくだらないなとも思ってしまったりして、そんな事思ってたら荒川さんの建築だってそんな物よりも山の中かどっかに住んじゃった方が荒川さんが言ってる意図にあってんじゃないの?とか思ったり

ネットや書店で情報が溢れて触れられる

そうなっちゃたら次は実感とか体験の方にこれからはみんな向かうんじゃないか

思考ってのは人間だけの能力でもあって、頭の中で思考錯誤しているんだけど

ほかの動物にはないんだ。絵を描くのもそういった思考に寄るもので、頭の中で、危機のような物を想定してそれを避ける事もできるのが人間だったりして

だからと言って、ずっと頭の中でぐるぐると物語を作ったり、起きてもない事に怯えたり、それだけじゃつまらないよね

飽きてしまうよ

指一本入らないのだからさ

ヴィドゲンシュタインの言語批評でさ、言葉では語れない的な、事を言っていて、科学は事柄を言葉にしていく作業だけど、言葉では語れない部分はずっと存在する。

それは、神はサイコロを振ると言ってたりして、僕も振ると思うの

アイシュタインは振らないって言ったけど、世界は完璧に意図するように出来ていないと思うの、合ってるかは知らんけど

読書とかは辞めれないけど、もっと外側を心だったり、体だったり、体感する事を目指そう

画家 藤田嗣治 について

兵庫県立美術館で行われた

藤田嗣治の巡回展を最終日ギリギリで観る事ができた 

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藤田嗣治とは、エコールドパリの画家でパリの狂乱の時代を、ピカソシャガールモディリアーニ、スーティンなど、書き切れないが、数多くの芸術家と、パリの舞台で友に時代を象った日本人である

しかし、当時の日本での評判は悪く、フジタの才能を直視できず

評判し続けた美術会の先見の無さに、フジタは呆れ、苦しんだのだった

戦中、散々世話になった後、戦犯問題で急によそよそしくなり離れて行く日本人画家たちや、戦争責任をフジタに被せ様とした日本の美術会に、フジタは何を思ったのだろう

 晩年、日本でフジタの絵が高騰した際、贋作が溢れ、フジタ自身もパリまで天皇陛下の名を語り訪れた者に、数点の作品を渡しとんずらされたエピソードもあり

日本を捨て、捨てられたとも語っているが、国籍まで変えたフジタに、日本人は、なにか思う事はあるのではないだろうか‥

 

展覧会は、フジタの藝大時代に描いた自画像から始まりエコールドパリの頃の乳白の裸婦や戦画、晩年と様々に連続的に展示しており、どれもその繊細な細い線の動きにため息がでる、乳白の白の美しくさは、画集のそれとはまるで違う、柔らかく、暖かい、白い肌は、言葉などでは言い表せない色彩を放っていた

戦画は、荒々しく波の様に崩れ、屍の上で殺し合う画面に、圧倒され、膝を付いたのだが、何処か淡々としていて、悲劇的な場面に、刺す様な痛みや悲しみが感じられない、何処か遠い世界を見ている様で、戦争を体験していない自分だから何処か現実離れしたものに見えるのだろうか‥、しかし、同時期に描かれた自画像も展示されており、頭の中に霧がかかった様なフジタの表情に当時の心情が見て取れる様な気がした

晩年の作品は、戦後、出国時に、絵描きは絵だけ描いてください と言い捨てた通り絵に没頭して行く、藤田の様子を絵に感じ取る事が出来た、色々な色の服を着た子供たちやカトリックの洗礼の影響からなのだろうが、宗教画など、細部まで書き込まれた絵画は、気が遠くなるほど見事なものだった

 

あるブログで、こんな記事を目にした

 作家 高橋源一郎氏がこんな発言をしていたと「自分は藤田の作品が好きだが、本物か偽物かというと、どこか微妙に嘘くさい、偉大なる偽物だ」まさに、この言葉と同じく、自分もフジタの絵が好きだ、だが絵には何処か嘘臭さを感じる

それに対して、何処か寂しさを感じてしまうのだ、誰かが表現と表出は違うと言っていたがまさにフジタは表現に徹していたのだろうか、だが、前に記述した、戦画の時期に描かれたフジタの自画像は、嘘臭さがまるでなく、高橋源一郎氏の言う本物なのだと感じるのだ

高橋源一郎氏に、自画像の感想を聞いてみたいものだったが笑

あの絵を見つけた時本当のフジタに会えた様な気がした

だから嬉しかったのだ

 

フジタについては、書きたい事がありすぎて、まだ書き足りないのだがこの辺でやめて置く、また、書き足したりするかも知れたいが今日はこの辺で